昭和39年12月22日 朝の御理解



 こんな恥かしい思いをする位なら、死んだほうがましと。死んで花実が咲くものかと。死んだ思いで恥じを忍んで、そして助かった方がありがたいじゃないかと。私は信心はね、この辺が分からせてもらわなければいけん。本当のおかげは受けられんと思う。こんな、恥かしい思いをする位なら、もう一層一思いに死んだ方がましだと。どうですか、死なんにいたしましてもです、こんな恥かしい思いをする位なら、ただそれをただじっと忍んでおる、苦しい事を忍んでおる。
 そして、恥かしい思いを、それはしないかもしれません。そして、一生その苦しい中にある。こんな馬鹿らしい事はないです。一時の恥。ね。恥かしい。けれども、勇気を出し、元気を出してもろうて、自分のプライドを投げ捨てて、助かったほうがよくはないかと。死んで花実が咲くものか。花実が咲いたほうがおかげ。あの時には死ぬ思いをしたけれども、おかげを頂いて見事な花も咲いた。
 実も実ったというおかげを頂かせてもらうためにです、私共はやはりそういう場合を元気な心で通らせてもらわなければならない事がある。元気のいることです。死ぬるという事はひきょうだと言う人があります。確かにそうです。この辺を私は信心は、いわば普通の考え方というかね、義理とか人情に縛られるとか、そして、あえなく散っていったりする人ではなくても、それで苦労に甘んじておる人。
 こんな馬鹿らしい話はないじゃない。真の信心を身に付けるために、真の信心生活が出来ることの為に、おかげを頂かねばいけません。真の信心生活が出来ると、真の信心生活と。真の信心生活とは、神愛を悟らせてもらい、神願に添い奉る生活だと私は思う。真の信心生活とは、神愛を悟らせてもらい、その神愛に応え奉る生活を真の信心生活だと私は思う。真の信心生活が出来ずして。
 真の道が開けるはずもなからなければ、おかげの道が開けるはずもない。浮羽郡の千足に大変有名な熱心な吉井のお医者さんがおられた。当時一遍そこへ招かれてお話に行った事がある。もう、十何年も前の話である。一晩泊まりであちらの地区の方達がいっぱい集まってから私の話を聞いて下さった。あくる朝お食事を済まさせて頂きましたら、その、お婆さんという方が「先生これは私共の家宝でございます」というてから。
 この扇子を私に示される。「これは金光様にお願いを致しましてからお書き下げを頂きました。まあいっぺんご覧下さい、拝んでください」といわれるわけです。開いてみたらその真ん中に小さく小さく「真の信心」書いてあった。白扇の真ん中に。本当に真の信心、真の信心とまあ、お道の信者でありながらこの言葉を使うのですし、また、皆もその真の信心を求めておるのだけれども。
 しら真剣、その、真の信心、もう自分が頂いておるのが真の信心ごと思うておる。もう金光様の信心そのものが、金光様の信心を頂いておりますといや真の信心を頂いておるごと思うておる人がある。そんな事はない。金光様の御信心を頂いておっても、邪な信心をしておる人があるのです。ね。私はその白扇を、と、こう開かせて頂いてから、御祈念させて頂いた。
 「金光様、只今この真の信心という、白扇をここで拝まして 頂いたのでございますけども、大体真の信心とは、どういう信心をもって、真の信心というのでございましょうかと、お伺いさせて頂いたら、三代金光様のお言葉で、いわゆる、三代金光様のお声でです、頂くんです。「真の信心とは、安心のおかげを受けることであります」とおっしゃる。真の信心とはね、
 だから真の信心をさせて頂いておればもう絶対安心の心が開けて来るということ。だから貴方の心の中に、安心のおかげを頂いておるのならば、あなたの信心は真の信心だという事がまたいえるわけです。ね。そこで今日いま私が申しております事をです、もういっぺん、ね、真の信心生活とは、神愛を悟らせてもらい、神愛に、神様の思いに添い奉る生活を真の信心生活だと。ね。
 神様の思いにそうた生活が出来るのですから、神様がはあぁあの氏子はもう安心と、安心してくださるはずでしょう。ね。神様が安心して下さるから、私共に照りかえってくるのが、与えられるのが安心なのです。ね。まず、神様に安心して頂かねばいけません。神様にそれは、完璧に完全にそんな事はとても出来はしません。けれどもそれを目指さなければいけません。真の信心を目指さなければいかん。
 為には先ず神愛を悟らせてもらうおかげを頂かにゃいけん。ね。そしてその、神様の思いに添い奉るあり方にならせて頂こうと精進努力、惜しんではならない。そういう精進、そういう努力にです、神様が安心なさらんはずはない。お喜びくださらんはずがない。だから、喜びも与えて下さるなら、安心もまた照りかえってくるわけでしょうが。ね。成程、金光様も仰るこれは極限の極限なんだ。
 金光様の「真の信心とは安心のおかげを受けることであります」と仰るね。為にその真の安心のおかげを頂く為にまず神愛を悟らせてもらうね。そこんところがそのこの一番大切今もうしますようにね、場合によっちゃあ恥じを忍ばな分からん事があるて。義理じゃから人情だからと、というておったんでは神様の神願に触れる事は出来ないて。私は昨日昨日の晩、菊栄会の徹夜で信心の話をした時に皆さんに申しました。
 私はありがたいと思いましたですね、お話を頂きながら。私の今度学院入学、ある菊栄会の会員の方が私に、あの、何十人も集まって会合をしておる時です。「先生学院に入ってください」と。私、此処で、私の横におって座っていうんですよ。「先生私がついていきますから学院に行って下さい」と。大変な大きな事業をやってます、この人は。もう例えそれがその時、その場の一つの感情であり感傷でありましてもです。
 私は有難いと思う。本当に人間心を使うならその人が思うただけでもいうなら、学院行きに決めたと私は応えたい位ないわば衝動をきっと感じたです。けれども私は人情では動かないと私はその時定めておったから、どちらにもどちらでも兎角、神様と親先生との間に一致するところの焦点をもって御神意だと私は思うておったからもうそれこそどちらでもよいというのが私の心境だった。
 その菊栄会の場に私行かせて頂きました。私聞いただけで御用の方達がそれぞれの立場でそれぞれの思いでです、先生が御本部に行かれるなら、自分も行くというて決めておった人があったです。中には大きな商売やらしておる人もあります。その人がおらなければ出来ないという人が、ような人が、もう私は本当に感激致しました。そのくらいないわば、道を思うというよりも、まあ、椛目を思う。
 まあ私を思うて下さるとこういう。私はそういう人たちの思いの中にあると言う事だけでも、幸せを私は感じます。それは私は聞き知っただけでもそれなのです。その時、私は皆さんに申しました。お互い、ね、勿論その方達はです私と一緒に学院に入学するという事。それはお徳を受けたいとか、おかげを受けたいといったようなものは、私はまずなかったと思う。いわゆる、私を空しゅうしておったと思う。ね。
 けれどもです、なにをなすにも私はお徳を受けなければいけない、信心をさせて頂いてお徳を受けないかん。ね。為に一つ皆、徳の亡者、ね、お金お金ともうお金さえ儲かればどげな事でもするというタイプの人があります。もうお金儲けの為ならばです、ね、どげな破廉恥な事でもやってのけると言う人があります。そう言う人を守銭奴と申します。ね。 徳を受ける為にはです、その守銭奴的なです、ね、
 本当にそのことによってお徳が受けるならばです、一時例えばよし恥かしい思いをしたってです、笑われてもです、叩かれても私はその徳を身に付けさせて頂こうという、意欲、願いがなからにゃいけんといういて話した事でございます。ね。私共はもう大体そうですね。もう人が馬鹿と言うても笑うても、それが、徳を受けられると言う事ならば私は本当にどげな馬鹿げた事でも言うたり、行うたりするでしょう。
 これからでも。そして、身に徳を受ければこっちのものなんですから。ね。笑われても悪口を言われてもです、神様の御神意のままに動かせて頂いてからのことならばです、神様が必ず、顔を奇麗に立てても下さりゃあ、洗っても下さる時期が必ずくる。私は昨夜お夢を頂いた。九州でも有名な先生でもある。その方が椛目の話を聞かれる。成程合点はしておるけれども、自分の立場を考えたら例えば。
 大坪さん位なものに信心を習うとか教えてくれなんかとは言えない。けれども、やはり、信心を求めておられることは止むに止まれんほど求めておられると。おじいさんだけれども。けれどもやっぱり、人間的ないわば今まで大坪さん大坪さんと言いよったその大坪さんにです、ね、教えてもらうという、それこそもう、身と顔と体をガタガタ震わせながらです、それでもやはり私の手をこういう風にしてから。
 手を差し伸べておられるところを頂くのです。ね。忍び得ない恥かしくて堪らんと。この位なところに例えば信心を学ぶとか習うとか言う事は恥かしいのだけれども、今まで言うて来た立場もあるから。沢山の弟子もおられる事だから、もうそれこそ、もう、表情もですね、もう、こう震わせてですね、もう、どうにもこうにも忍びないほどに苦しい。けれども、やはり徳は欲しいというような感じなんです。ね。
 手をこう差し伸べておられる所を頂くのですよ。だからどうぞそこ辺のところの気持ちのおかげを頂かれる為に、というて私があの夢の中で祈らせてもらいよったら、夢の中でですね、鷲木と頂いた。あの、鳥の鷲というのがおりましょう。鷲の木と頂いた。そしてそれを、次に鷲木が吉木へと次に頂いた。(よしとはだいよしのよしです)。木は心。ははぁ成程、これだけの修行が出来た先生だから確かに大きな我も強いと。
 わしのごたる我も強いと。我しがーと言う気持ちも強いけれどもです、けれどもその我が強ければ強いほど信心に対する所の熱意も持っておられると言う事。ガタガタ震えながらでも、やはり手を差し伸べて折られるという事。為にはもう少し気持ちよくされるためにです、神様は鷲木が吉木なるように頂いて今朝目が覚めました。私は今朝そのご理解を頂いてから、今朝の御理解を頂いております。
 お互いの上にもそれがあります。ね。もう例えていうならばですよ、ね、とてもどげんいうたっちゃ下さいとはいえない。例えばまあ人間ね、また自分の立場としてですたい、あげな人から金なら金を貸して下さいとどげん、あの人に金を貸してくれといわないかんごたるならば、死んだほうがましと言うような場合がある。さあけれどもです、言えば貸してもらえるなら、私はいわにゃいかんと思う。
 それで立ち行くならば。そして、立ち行いた後におかげで立ち行きましたというて私はお礼をいえば、こっちも喜べばこっちも喜ぶと。ね。そういうときです、もうあげな人にたのまなんごたるなら死んだ方がまして、死んで花実が咲くものかと。花実が咲かないかんのですから。ね。そういう時に意地も捨てにゃあいけん、プライドも捨てにゃあいけん。ね。いわゆる、馬鹿と阿呆にならにゃあでけんと言う事。ね。
 ね、身に徳を受ければです、身に神徳を受けさせてもらうと人徳がついて来る。人がバカのごといいよったばってん、徳を受けらしゃったら皆がです、成程と合点してくれるようになる。ね。習うは一時の恥じである。「習うは一時の恥である。習わぬは一生の損だ」というような諺がありますように、ね、それがその人その人にです、ね、久留米の初代の石橋先生は「神徳学問は別物じゃ」と仰る。
 「神徳修行は別物だ」とも仰った。神徳の学問という。普通の教学という意味ではない。神徳の学問と言うものがある。普通おかげを頂くところの修行もあるけれども、ね、神徳を受ける修行というのはまた別物だと、石橋先生は言うておられます。ご自身が受けておられるからそれが言えるのです。私共も成程、そうだろうと思うことが過去の信心を振り返ってみてそれを思います。ね。
 だからその別物ですから、とても、人間のですね、常識といったようなものではね、判断できません。今まで身に付けてきた信心の例えば教養くらいなことでは分かりません。徳のない間は心配をする。身に徳を受ければ心配はないと。いよいよ、大愛を悟る、神愛を悟らせてもろうて、ね、その、神愛に応え奉るところの信心ということは、言葉ではたったそれだけの事だけれどもです。
 場合によっては、恥じを忍ばねばならんような事もある。ね。そいういう時にです、そげなことなら、死んだ方がましというような、死にゃせんでもです、そんなら、苦労しておったほうがいいと、いうごたることでは信心はつまらん。早くその苦労を脱出しなければ。ね。本当におかげを頂かなければ、神様は喜んで下さらん。自分も助からん。ね。花実が咲かん。
 花実、花が咲いたり、実が実ったりしてから、始めて私は神様も、喜んで下さると私は思う。神愛を悟らせてもらい、神愛に添い奉ることに念願する。ね。そこに、修行、精進の焦点をおく。そういう生活を、真の信心生活だと私は思う。その真の信心生活にです、与えられるのが、安心であり、信心の喜びであると私は思うのです。
   おかげを頂かねばなりません。